在京都大學旁的百萬遍買的木刀

鹿男讓我想起很久很久以前我想學劍道的事這篇文章就是在講我對日本刀以及我外公的回憶

 

日本びいきの外人にの例にもれず、私もチャンバラが好きです。好きのあまりに、台湾に居た時から剣道を習うと思いました。そして、大学の時に、剣道部も兼ねる空手部に、唯一の女の子として入部しました。コーチに「剣道を習うなら、先ず空手を習い、有段者になってからやれ」と言われ、“そんな事はないはず”と思いながらも、一年近く空手を習いました。結局、冬の早朝に男の子に遠く引き離され、独り寂しく裸足で走る事が嫌になって、辞めました。でも、やはり剣道に対する憧れは消えませんでした。だから百万遍の「手作り市」でこの×百円の木刀を見かけた時に、凄く喜んで買いました。それを振り回しながら研究室に戻った時に、皆の呆れた顔は言うまでもないです。
私の刀に対する思いは、多分、母方のお祖父さんの影響でしょう。お祖父さんには三十人の孫がいますが、その中でお祖父さんの「日本時代の思いで」に付き合えるのは私だけでした、私が四歳まで東京に住んでいたからです(怒られた時には、「東京帰りなさい」や、「どうせあなたは東京のゴミ箱から拾われたの」と怒鳴られたけど)。
お祖父さんの「昔話」の中には、日本の名刀の話がありました。
終戦後、台北(全台湾)では「無法状態」が暫く続きました。台湾に残留された日本人、特に元警察の日本人は外へ出るとチンピラ達から酷い目にあわされるのでした。お祖父さんは正義漢だったので、自ら「義勇警察隊」を作って、毎日台北駅の近くで治安を維持していました。お祖父さんは身長193センチの「台湾一の高人」なので、悪い人でもお祖父さんに「見上げる」しかなかったのです。
そしてある日、旧台湾総督府の偉い人が一振りの刀を持って、お祖父さんを訪ねて来たのでした。刀はその人の家に代々伝わっていた鑑定書付きの「関の兼貞」という名刀でした。もう日本に帰るし、刀は持って帰れないので、その刀を「日本の武士道精神を持つ」お祖父さんにあげると言うのです。お祖父さんはその刀を大事に、自分の刀剣のコレクションの中に入れました。
しかし、二年も経たないうちに、台北で二二八事件が起りました。お祖父さんが台湾の米を仕切っていた為に、国民党の憲兵などが時々お祖父さんの店に訪れました。結局、家族皆の命の安全の為に、やむを得ず、それらの刀を全て「油布で包んで、川底に沈めました」。何ヶ月後に川浚いに行ったところ、もう刀は影も形もなくなったていました。
お祖父さんが死ぬまで、刀の事が心残りでした。
台湾の諺に「(ボォ)(ヒー)(ヘェ)(マ)(ホォウ)」(魚が捕れないなら、蝦でも良いわ)があります。しかし、お祖父さんは「名刀」、私は「安物の木刀」の格差は、いくら孫としてお祖父さんに遠く及ばないとしても、あんまりですね。 

attachments/200805/7420877862.jpg
評論: 2 | 引用: 0 | 閱讀: 9846

数据库出错:

MySQL Query Error
Mysql error description: Can't create/write to file '/tmp/#sql_2952_0.MYI' (Errcode: 17)
Mysql error number: 1
Date: 2024-11-22 00:57
Script: http://witch.froghome.tw/index.php
SQL code: select distinct a.*,b.id as member_id,b.nickname,b.isHiddenEmail,b.email as member_email,b.homePage as member_homepage from f2blog_comments as a left join f2blog_members as b on a.author=b.username where a.logId='378' and a.parent='0' order by postTime asc Limit 0,10