日本的糖果餅乾鋪

從國語日報想到我在京都新聞寫過的童年回憶。

ファッションやブランドなどの流行に全然気にしていない私は、一つだけかなり「時代の先駆け」になっている点があります。それの良い言い方は“英才教育”ですが、ズバリを言うなら“填鴨式教育”(フォワーグラを採るために、ガチョウの口に無理矢理餌を詰め込むような教育)です。
私が通っていた小学校は勉強の時間が一番長かった事で有名でした。他の小学校一年生がお昼にはもう家に帰ったのに対して、私達の授業は『公式的』に午後三時半で終わります。その後は学校側が主催する『自由参加』の“課外補習”があります。本当の“放課後”になっても、皆がまたそれぞれ通っている塾などへ行きます。私はその他に、週末にもピアノの先生と絵の先生が家に来て、“情操教育”をするので、今になって、毎回マスコミが「小学生の負担が重過ぎる」などについて騒ぐのを見ると、私は少々(かなり?)『ひねくれた自慢』をするのです。
京都でこの駄菓子屋さんを見つけた時に、急に自分の子供時代を思い出しました。私にとって、駄菓子屋はかなり異質な空間でした。そこは私が唯一、所謂“普通の子供心”を取り戻せる場所した。
私が二十歳まで、台北郊外にある中央研究院に棲んでいました。研究所以外に何も無かったなので、台北市内にある祖父母の家に里帰りするのが大好きでした。そこは今もう寂れたが、日本時代は繁華街だった。お寺も、茶店などの昔ながらの「門前町」にあるべき店や町並みも全て揃えってあります。駄菓子屋もその一つです。
お小遣いを全部母に管理されていた私にとって、従兄弟たちと駄菓子屋へ行くのが一大イベントでした。駄菓子を買うのが許されない、めんこなどのゲームも遊べない私が愉しみにしていたのは、沢山の格子に小分けされて、中味の見えないスペースを指で突いて紙を破り、中の景品を当てるゲームでした。
店番をしていたのは背中が曲がっている女の人でした。《ノードルダムの鐘》でしか“せむしの人”を知らない私達にとって、彼女に話をかける事自体だけでもわくわくする大冒険になります。彼女の名前を知らない私達は彼女を「駝背的(キャウーグーエィ)」(台湾語のせむし)と呼びます。当時は現在のように“差別用語”に神経質になっていなかったし、私達もどっちかと言うと“親しみを込めて”呼んでいたので、彼女は私達が行く度にやさしく接してくれる上に、時々おまけもくれました。
だから本の中の虚構人物にも実在人物にも関わらず、私はいまだに“せむしの人”は“心のやさしい良い人”だと思っています。
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